北辰一刀流の創始者、千葉周作成政は1794年、
奥州陸前の気仙村(現在は岩手県陸前高田市)で
生まれる。
26才の頃、小野派一刀流中西忠兵衛門下に
在って修行、その組太刀の不備を痛感、
研究工夫で改良し養家である浅利又七郎とも
義絶し、武者修行の為、関東・甲信越・
東海地方にかけて各地で土地の強豪に試合
を挑んだ。
高崎において馬庭念流との確執に依って名声が高まり、江戸に帰るや文政5年(1822年)28才、
日本橋品川町に玄武館道場を構え北辰一刀流の看板を掲げ、家流の北辰夢想流の北辰と
伊藤一刀斎の一刀流を併せて北辰一刀流とした。文政8年、神田お玉ヶ池に道場を新築、
居を移した。 八間四方玄関は破風造りという立派なものであった。門弟その数3,600余人、
入門者はひきもきらなかった。指導法は具体的で、組太刀と竹刀剣術を一致させ、構なども
その時々で自由な構をとらせた。
古い因習にとらわれない柔軟な心と合理的精神は竹刀剣術の進歩にも貢献した。
千葉周作は安政2年12月13日満61才で永眠した。
周作は時代を先取りした感覚を持ち、武士に限らず、町人や商人に対しても教授した。事理一体の稽古方法を用い、組太刀と竹刀剣術を合せて稽古することにより、他の道場で10年かかる修業を5年で仕上げたのであった。 子には剣の天才とも言われた四子、奇蘇太郎・栄次郎・道三郎・多門四郎がいた。なかでも栄次郎は父周作を凌駕するといわれ、突業は抜群で二段突、三段突、小手懸突、右片手上段は無類であった。山岡鉄舟が若年の頃、悪友10名と共に栄次郎に闇討ちを掛けたがことごとく倒され、玄武館に入門した。
二代目を道三郎が継いだ、その門から明治の剣道界を背負って立った剣豪を多数輩出した事は衆知の事実である。此の中に北辰一刀流の四天王と言われた、門奈正・内藤高治・小林定之・下江秀太郎がいた。道三郎の子の勝太郎勝胤が玄武館三代目と目されていたが、目に障害があり宗家を継ぐ事はかなわなかった。関東大震災に依って、あの広大な玄武館道場と共に貴重な遺品や極意書は灰燼に帰した。 五代目の宗家を継いだ小西重治郎成之は、野田和三郎三代目館長の内弟子となり、若冠19才にして玄武館の代稽古となる。戦争を境にして三代目は病没、五代目はパイロットとして戦野にあり、四代目はシベリアに抑留され道場は閉鎖、土地建物は人手に渡ってしまった。
終戦後、五代目は昭和20年8月、現杉並区善福寺公園を野天道場として少年指導を開始した。屋根のある道場の形をとったのは昭和25年の秋であった。竹刀一本、彩管一本が唯一財産であった。その頃荻窪警察の渡会助教の好意で出稽古をすると共に指導に情熱を燃やした。辛苦を重ねながら弟子達後援者の温かい励ましに依って、現在の玄武館を確立する。「交剣知愛」を説き、相手を思いやる剣を目指した。殺法としての剣術ではなく活法としての剣術、活人剣としての北辰一刀流を門人に指導し、剣術の心構えを普段の生活にまで活用出来るような指導方法であった。 また千葉周作先生の生家のある岩手県陸前高田市で毎年行われている、『剣豪 千葉周作顕彰 少年剣道練成大会』において、少年少女剣士に演武を披露する等、精力的に活動した。 剣のみならず、文筆家・画家としても活躍し功績を残している。戦争での経験を反映させたその作風は、これからの世代に対して人の生死について語りかけている様である。平成20年6月1日、89才で惜しまれながら永眠した。
六代目となる小西真円一之は幼少の頃より五代目である父、重治郎成之と共に出稽古に励み剣道界の猛者の薫陶を受けてきた。副館長として五代目を支え、門人の指導に尽力する。 五代目没後、六代玄武館館長として先人達の築いてきた北辰一刀流を守り、活人剣の理念を基に人を育て、社会に貢献していける人材を開発し、当流当館をさらに発展をさせる決意で現在に至る。
北辰の文字を一刀流に冠して新流とした意味は、千葉家においては諸祖・千葉常胤千葉常胤 以来、北辰(北極星=妙見)の信仰を生活原理としてきたからである。
円の中の中央上部にある北極星を中央に添え